カメと家族と

最近、わりと私は多趣味なのではないかと自分を見直しているところだが、その趣味のひとつに、カメ飼育がある。
西ヘルマンリクガメというリクガメと、ニホンイシガメという日本固有種だ。
どちらもまだ成体ではないと思うが、家に来た頃よりだいぶ大きくなった。
子どもの頃、未熟な飼育技術のせいで当時飼っていたカメを死なせてしまったという反省から、今回は飼育書を熟読し、飼育環境にも妥協をせず、できるだけ長生きしてもらえるよう努力しているつもりだ。

 

世の中にはカメを飼っている人は結構いるらしく、ホームセンターのペットコーナーでもカメグッズやエサが比較的容易に手に入る。
今日も仕事帰りに、イシガメのエサを買いにペットコーナーへ。
時間があったので、いつもは見ないコーナー全体をゆっくり見て回ることにした。
やはり犬と猫のブースが圧倒的な面積を占めている。
犬小屋や猫の塔、首輪やなどの用品はもちろんのこと、圧巻なのがエサの種類の豊富さ。
通常のドッグフードなどに加え、各年齢層に応じたさまざまな味や形態のものが所狭しと並べられており、見ていて本当に飽きない。
ケーキみたいなものもあって驚いたが、よく見ると成分的に害はないらしい。
誕生日などに食べさせるのだろうか。

 

犬や猫を飼育している人は、それらを家族とみなすことが多いらしい。
多いというか、ほぼ全ての人がそうだろうと思う。
昨今は番犬という概念は良くないものとされ、コンパニオンアニマルとして家の中で家族の一員として過ごすのが普通だ。
わかる気がする。
昔犬を飼っていたから、犬には表情もあれば感情もあり、嬉しそうにしていればこちらも嬉しいし、病気になれば夜も眠れないほど心配になるのも経験済みだ。
死んでしまった時は、数日泣き暮らしたのを思い出した。

 

カメはどうか。カメは家族か。
表情は・・無い。
あっても哺乳類であり、さらに未熟者のオッサンには読み取ることが困難である。
感情は・・・よくわからない。
エサをあげると寄ってくるが、特に喜びの表情をすることもなく貪り食っている。
水槽やケージの掃除をするときも無表情で、巧みに私の手を避けて、自分の行きたい方向につき進むマイペースっぷり。
常に逃げようとしており、日光浴の際などは目が離せない。
多分私のことが嫌いなのだろう。

 

しかし病気になると心配になるのは犬と同じで、カメを診てくれる動物病院は限られるから、ある意味犬や猫よりも不安感は大きいかもしれない。
もちろん、生き物が死んでしまったら悲しいことはわかっているから、死なせないように日々、環境改善、体調管理に勤しんでいるわけだ。

 

うちのカメ達は・・・なんと言うか、家族というか、オッサンの家のカメシステムの重要な要素なのだと認識している。
飼育本や雑誌、ケージやメタハラ、保温球やUVライト、温度計や濾過器、甲羅干しをするための陸地、リクガメの低床、湿度管理装置、カメブロス、小松菜、バナナ・・・それらの中心に、彼らカメ達がいる。
そしてそのカメシステムは、家や車、パソコンやテレビや冷蔵庫や洗濯機などと同様、私の周りで私を客観的に私たらしめている外的要因の一要素であると言える。
今の私からその外的要因のひとつが失われると想像してみると、実に悲しく不安定な気持ちになる。
私の一部が無くなってしまうような痛みを感じるのだ。

 

ただの家電である洗濯機だって、長年家族の洗濯物を一手に引き受け、日々、回り続けて頑張ってきたのだ。

それが先日壊れてしまった。
急に、動かなくなってしまった。
妻も、手入れしていたのにと悲しんでいたし、私も悲しかった。
業者に引き取られていく姿を見て、心の中で手を合わせ、「ありがとう、ご苦労様」と言ったものだ。

 

カメは生き物だから洗濯機とは違うのは百も承知。
しかし、私を私たらしめている外的要因のひとつであることに疑う余地はない。
家族の定義は様々だが、家族というのもその外的要因のひとつと考えるならば、カメは家族なのだろう。
私にとって大切な存在なのだ。

 

だから、もう少しだけでいい、慣れてくれ。カメノスケ、サユリ。