この手の話題は、毎日のようにどこかのブログ、noteあたりで取り上げられていそうだが、ここはひとつ、オッサンとしても書き残しておこうと思う。
1. 手帳
手帳については、私は完全にデジタルに移行した。
学生時代から綴じ手帳やシステム手帳などをいろいろ使用してきたが、実のところあまり有効に活用はできていなかったというのが正直なところ。
手帳術の本やwebサイトを見ると、皆さんすごいよね、イラストやシールなどを使い、もはや芸術の域。
オッサンも触発されてイラストなど描いたこともあったが、絵心がないからね、私。
もとより手帳は人に見せるものでもないのだが、自分でも見たくないという寂しい結果に終わった。
あれ、本当に日常的にあんな手帳を描いているのかな?
見せる用に作ったんじゃないの?
いや、失礼か。スイマセン。
絵が上手い人は、相当のクオリティの絵をババっと描けるものなのだろう。羨ましい限り。
ともあれ、予定管理に関してはデジタルプランナーの雄、Googleカレンダーが非常に便利で、家族と予定を共有したり、リマインドしたりと、紙の手帳では実現不可能なことが簡単にできてしまう。
予定はそのまま過去の記録になるので、その検索性の高さもデジタルが圧勝。
数年前の予定など、サッと紙の手帳で確認できるのはクマガイ社長くらいだろう。
もちろん、手書きが良い、良質の紙にこだわりの万年筆で書くのが良いという意見もわからなくはない。
デジタルの権化みたいなiPadも、Apple Pencilなる新時代のペンを使って、アナログの紙とペンを模倣しようとしている。
世の人の、手書きがしたいという欲求は思いのほか強いようだ。
たまたま私は手帳に予定管理以外の役割は期待していなかったため、その欲求を捨て去ることができたというだけだろう。
また、紙に書くと考えがまとまる、アイディアが出てくるという意見もある。
これは完全に人それぞれだな。
私はむしろ、ペンを手にして真っ白な紙を前にすると、何も書けなくなる。
逆に、真っ白なエディタの画面を見ると、無性に何か書きたくなってくる。
多分、その人が何かを書くときに、アナログとデジタルのどちらのツールを使うことが多かったかによるのだと思う。
私に関して言えば、小学校高学年の時にワープロ専用機を誕生日プレゼントにもらって以来、手書きの必要がある文以外は、ほぼ、キーボードで文章を綴ってきた。
もはや脳がそうなってるんだと思う。キーボード脳。
今の若い者は、物心ついた頃から狭いスマホの画面でフリック入力でしょ?
今後の芥川賞や直木賞は、そういったデバイスで書かれた作品が席巻していくものと思料する次第。
2. 書籍
これは悩んでいて、いまだに答えは出ていない。
先ほど、書くためのツールはアナログかデジタルか、より多く接してきた環境に左右されるかもと書いたが、その考えでいくならば、私は圧倒的にアナログの本に接してきた人間だ。
だから今でも書斎には本が山ほどあるし、書店で本を選ぶのが大好きだ。
本という存在を愛している。
何冊か併読している時など、全部持ち歩くとカバンの重みで謎の肩の痛みが増すわけで、オッサンになればなるほど、電子化された本というのはありがたいのだ。
老眼も出てきたから、拡大して読めるというのもオッサンフレンドリーなんだよね、電子書籍は。
ただ、やはりアナログ書籍世代なので、電子書籍での読書体験は、読書している感が薄いと感じられるのは事実。
このあたりのページの、ここらへんに、こんなことが書いてあったはずという記憶が、物理的な本の感触や匂いなどの感覚として残りやすいのだ、紙の本は。
五感で味わっているのだ。食べないけど。
以前、書斎にあったほとんどの本を裁断してスキャン、データ化して活用するというデジタル原理主義に取り憑かれ、数ヶ月をその作業に費やしたことがあった。
予定通りデータ化はできて、蔵書リストもわかりやすく作って、自由に検索できるようにした。
で、今その本たちを読んでいるかというと、悲しいことにほぼ読んでいないんだよね。
存在を忘れている本もあったりして。
そのあと買って現在書斎の本棚に並んでいる本は、時々背表紙を眺めて手に取ったりすることもあるから、本は物理的に存在していたほうがいいのかな、と思っている。
ただ、いつでもどこでも、在庫切れの心配なく、読みたくなったらその場で購入してすぐ読めるというkindleの便利さも捨てがたい。
検索する用途が想定される専門書は電子書籍、小説などは紙の本、などとルールを決めるのもいいとは思うが、そのルールから外れるような本もあったりして、なかなか難しい。
ミニマリストなる人物の「本は全て電子書籍です!」と言い切る潔さに羨望の念を抱きつつ、この本に囲まれた書斎の良さもなかなかのものだぞ、とも思うのである。
3.結局のところ
アナログとデジタル。どちらか一方に決められたら楽なのだが、どちらにもそれぞれの良さがあって、どちらも手放せない。
カメラや音源などに言及すると、もはや収拾がつかなくなりそうだ。
しかし落ち着いて考えると、どちらかに決めなくてはならないというのも変な話だな・・・。
危ない、危ない。
分類原理主義に囚われるところであった。
アナログとデジタルの過渡期に生きる者の宿命なのだ、とでも思っておけば少しカッコいいから、中途半端でいいや。